曇のち晴
『智に働けば角が立つ、情に棹せば流される、意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。・・・越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を束の間でも住みよくせねばならぬ。。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするゆえに尊い。』
有名な夏目漱石の「草枕」の冒頭です。
サラリーマンやってますと職場ではこの手のことで随時頭を悩ませることが発生するのですが、これが1867年(慶応3年)に生まれて激動の明治を生きた文豪の文であることをあらてめて感じなおし、日々の心のうつろいを意思の力で「曇のち晴」に持っていくのであります。
残念ながら私は詩人でも画家でもありません。じゃ会社員かというと確かにそうなんですが、そう思いたくない自分がいます。
「私は会社員なんだが会社員ではない」存在であるために、、自然に目を向けながらサッカーと真剣に向き合い、何か創造しようともがいています。
昨日は午前中の雨で息子の初めての対外試合が中止になり、雨上がりの武蔵野を二人で散策しました。
以前は無目的で息子と外に出るとブランコやすべり台のある場所を探してましたが、今は「花」「草」「生き物」などを見にいくことが多いです。昨日は風が強くて寒かったのですが、力強く咲く花や咲かそうとしている植物をいくつか見つけました。
人間同士、特に会社などの組織体ではなかなかわかり合えないことが多いですが、最近の私は何をいまさらですがこれが前提なのだと理解し、合わなければそれはそれで仕方がなく、その中でできることをやろうと思ったのです。そもそもわかり合えると思っていることのほうが錯覚で、態度としては傲慢なことなのかもしれません。
おそらくこれは自分の子供に対しても言えるのでしょう。私は彼女、彼をわかっていないのです。わかっていないということをわからなければならないのです。
「私はわかっている」前提から「私はわかってない」前提に変えることによって、子供だけでなく周囲との関わり方、ものの見方が変わってくるでしょう。世の中的に良いか悪いか、正しいか間違っているか、0か1かではなくて、自分の考えを持ってそれに基づく自分の行動に責任を持つ姿勢を貫けるよう自分を変えていきたいと思います。
知らぬ花 知りてもの言ふ 雪柳 熊蝉
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